大菩薩峠越え
夏の間に近所の多摩丘陵を走り回っていたら膝を痛めてしまい、しばらく山を歩いてませんでしたが、最近になってようやく治ってきたので、久しぶりに山歩きに行ってきました。
いつも通っている整体の先生からトレランは少し控えめにするように言われたので、今後はトレランは調子が良いときに軽めにやる程度にしたいと思います。
久々の山歩きだったので、どこの山に行こうか悩みましたが、またどこか峠を越えて歩きたいなと思い、いつかやってみたいと思っていた大菩薩峠越えをやってみることにしました。
大菩薩峠は塩山と丹波・小菅を結ぶ峠で、かつての青梅街道の最大の峠として、多くの人々に利用されてきたそうです。
道幅が狭く通行が困難な難所で、標高が高いため冬場は遭難者も多かったそうですが、江戸時代に甲州街道が出来てからも、青梅街道の方が甲州街道よりも短く、関所も無かったことから、あえて大菩薩峠を越えて江戸と甲府を行き来する人も多かったとか。
そんな大菩薩峠を、今回は甲府側から歩いて越えていくことにします。
今の時期は平日でも上日川峠まで行くバスが毎日出てますが、昔の人と同じ苦労を味わう為に、裂石の大菩薩峠登山口から出発。
裂石から遥か遠くに見えるあの山を越えて、向こう側にある丹波山村を目指します。
ちょうど紅葉が良い感じの時期ということもあって楽しみにしていましたが、朝のうちはよく晴れて、上日川峠までの登りの道は紅葉がとても綺麗でした。
裂石から上日川峠までは誰にも会いませんでしたが、上日川峠からは一気に登山者が多くなりました。
富士見山荘のところに旧道への分岐があるので、ここから旧道に入って行きます。
道標には「賽ノ河原(旧道)」と書かれていますが、現在は賽ノ河原と呼ばれている場所が昔は大菩薩峠と呼ばれていた場所で、昭和中期まではそこに大菩薩峠の標柱が建っていたそうです。
旧道を歩いて行くと、さらに富士見新道という道との分岐があり、そっちの道も気になるところですが、今回はそのまま旧道を真っすぐ進みます。
だんだん周りに木が少なくなってきて景色が良くなってきました。
大菩薩峠から大菩薩嶺へと続く稜線が見えてきました。
天気も良くて稜線歩きが気持ちよさそうですが、今回は時間の都合もあるので峠から真っすぐ丹波山村へ降ります。
旧道を歩く僕。
旧道というぐらいだからもっと荒廃している道を想像していましたが、かなり多くの人に歩かれているようで、普通の登山道の感じでした。
そして旧大菩薩峠の賽ノ河原に到着。
稜線から手前側は晴れてましたが、賽ノ河原に到着したら急に霧が濃くて周りがほとんど見えません。
鳳凰三山の地蔵岳などにもありますが、登山をしていると、たまに山の中で「賽ノ河原」という名前が付いた場所が出てくることがあります。
一体なぜなんだろうと思っていましたが、ここには大量のケルンが積んであって、確かに三途の川の賽ノ河原を髣髴とさせる光景でした。
昔からよく使われていた峠だから目印の石積みがあって、だから賽ノ河原と呼ばれるようになったのでしょうか。
すぐ近くの親不知ノ頭というピークからの景色。
稜線から東側は霧で何も見えませんが、反対側の方は別世界のようにいい天気です。
大菩薩峠に到着。
いよいよここから丹波山村へ下る丹波大菩薩道を歩きます。
峠から15分ほど下ったところに少し平らになった場所があり、この写真の看板がありました。
この場所が、峠を挟んだ両側の村での交易品の交換の場として使われていた荷渡し場だったようです。
ちなみに賽ノ河原が大菩薩峠だった頃は、賽ノ河原から直接降りて行く道(現在は廃道)が使われていたそうで、そっちの道にはもっと古い荷渡し場の跡も残っているそうな。
さらに少し歩いたところにあるフルコンバ小屋の看板。
この小高くて平らになっているところに小屋があったみたいです。
ちょうどここから道が分かれて、右の道が小菅の方に下りる小菅大菩薩道で、丹波大菩薩道は左の小屋跡の奥の方にある道のようですが、霧が濃くて奥の道が見えなかったので間違って右の道を下りてしまいました。
小菅大菩薩道を下る僕。
20分ぐらい歩いたところで道間違いに気が付き、フルコンバ小屋跡まで戻りました。
ノーメダワを過ぎ、サカリ山の山腹を巻く道を歩いて、追分に到着。
ノーメダワ~追分の区間はちょこちょこ道が荒れていて、沢状のところでは道が崩落していたり、倒木で道が塞がれてたりしました。
追分から藤ダワまでは沢沿いの道を下っていきます。
杉林に混じって巨木がたくさんあり、なかなかすごかったです。
藤ダワから高尾天平を過ぎてしばらく歩くと、丹波山村が見えてきました。
峠越えのときはこの瞬間が一番嬉しい感じがします。
途中で道を間違って時間をロスしたのもありますが、大菩薩峠を出てから反対側に降りるまでに3時間半もかかり、とても疲れました。
こんな道を荷物を背負って、娯楽ではなく生活の為に歩いていた人達が居たというのがちょっと信じられないぐらいです。
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